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こういうのは「交渉」とは言わず、「因縁」をつけると言うのだよ 利川市民団体が文化財の石塔返還を要請、日本は拒否 (聯合ニュース 2008/09/10) 日帝占領期(植民地時代)に日本が持ち出した「利川五層石塔」を取り戻すため結成された京畿道利川市の汎市民運動推進委員会が、文化財庁職員らとともに日本を訪問し石塔の返還を求めたが拒絶された。 推進委員会が10日に明らかにしたところによると、訪問団は石塔の保存状態を確認し、石塔を所有する大倉文化財団関係者に会い石塔の返還を要請するため、4日から石塔が保存されている東京のホテルオークラを訪問した。 訪問団は財団の渋谷文敏事務局長と会い、石塔の返還を正式に求めたが、渋谷事務局長は、返還は考慮したことがなく、重要美術品のため外国に搬出するには文化庁の許可を受ける必要があると説明し、返還に応じない立場を示した。ただ、訪問団が石塔は本来2つ1組で作られたものだと説明し、利川に残っているもう1つの石塔を視察し対話の窓口を維持するため財団責任者に利川を訪問してほしいと要請すると、財団側は肯定的に受け入れた。 推進委の李尚九(イ・サング)委員長は、日本側は事実上、返還不可能という立
練習(桜井→太子→柏原→斑鳩) 22日(日) 朝8:40起床 きのう土曜日は、TKくんとの朝練予定が雨でお流れ 今日こそは練習するぞっ! っと、外を見ると目の前の道路が濡れている ちっ、今日も雨降ってたんかい 朝食を食べ準備 路面が乾くまでしばし待つ 9:42出発 空は曇り。今にも雨が降り出してもおかしくなさそうな空だ R169を南下 乳酸が貯まらない程度に30km/hペースを保つ しかしことごとく信号で停まるなあ 天理市内を通過し桜井市内へ 三輪大社の大鳥居横を通り過ぎる 阿倍交差点にどんつき、R165を西へ 右手に耳成山が見えてきた なだらかな三角形の山はよく目立つ 古の言い伝えでは、この山は、畝傍山を妻とするために香具山と争ったそうな 大和高田市内へ入り葛城市へ 旧当麻町役場を通り過ぎる 山麓線の交差点を右に折れる 二上山を左手に見ながら北進 二
聖徳太子ゆかりの太子町(大阪府) このお盆休みの最中、辛うじて1日だけお休みできたので♪ こうしてちゃんとカメラ持って出かけるのはGW以降かも。 久しぶりのデジ一眼重い〜★ 露出間違いまくり〜★ メガネ曇る曇る〜★ 毎朝くららに鍛えてもらってるはずなのに、どうしてこんなヤワになったのでしょう(笑) 今回何気に訪れたのは、大阪府太子町。 言わずと知れた聖徳太子ゆかりのまち。 大阪府といってもかな〜〜り南部。 道の駅「近つ飛鳥の里・太子」に車を停め、竹内街道をぶらりぶらり。 飛鳥時代につくられた日本最古の「官道」なのだとか。 すごいですよね〜、どうです?感動(官道)しました(笑)? 余談ですが、実は大の「道の駅ファン」です♪ 好きな時に好きな車と好きな場所に出かける「クルマひとり旅」では「道の駅」はなくてはならない存在。 今回もそうでしたが、帰りに地元特産のぶどうや新鮮な野菜をたっぷり帰って帰りました。 これから涼しい季節になれば、「道の駅」で快適な車中泊も楽しみの一つになるかも♪ いやいや、別に家にいられない理由はありませんので誤解なきように(笑) 全
定例ランニング・2時間半山間部ガンバしました。 定例ランニング・2時間半山間部ガンバしました。 フジラン定例ランニング・山間部を中心に2時間半。 (随行記者報告) 本日午前6時半(お知らせの通り)大阪府太子町道の駅に集合した3名(黒影氏・勝井氏・師範代氏 は、ここから竹ノ内峠まで登り坂の国道をランして行きます。峠で汗をかいた分を、体に飲料補給を して、いざ、ダイヤモンドトレイル(以下ダイトレと呼ぶ)に突入で〜す。しばし坂道を走破すると 平石峠です、ここからはダイトレ名物の階段攻撃となります(葛城山・金剛山の攻撃はピークです)。 長〜い階段を上ったり下ったりして、スタートから1時間半で岩橋山に着きました。(葛城山へは 後1時間半過ぎを要する場所です)今回の予定はここまでで折り返すのですハイ。では、しばし休憩と 思うも、蜂やあぶなどの攻撃を受けて早々に下山となりましたよ。 帰路は下りが多いので速い速度で走行出来ま
兵庫県太子町と聖徳太子の十七条憲法「和」について異論 大阪府太子町は太子ゆかりの町ですが、同様に、兵庫県にも、太子町があります。 <兵庫県太子町のホームページより抜粋> ■ 1400有余年前の推古天皇の時代、聖徳太子が勝鬘経、法華経などを天皇に講じられ、これに御感あった天皇より播磨国の水田を賜り、太子はこれを仏法興隆のため法隆寺に寄進されました。 ※『日本書紀』によると、寄進の時期は推古14年(606年)7月、水田の規模は100町、『聖徳太子伝記』では同じく、太子44歳御時、360町とある。諸文献に諸表記がある。 後の平安時代に、この地は法隆寺の荘園「法隆寺領播磨国鵤荘(いかるがのしょう)」へと発展し、その中心に荘園経営の中核的存在として、政所とともに斑鳩寺が建立されました。 この創建以後、鵤の地はながく、この地方の太子信仰の中心としても栄え、播磨の国の中における特異な文化興隆地域を形成することになりました。 斑鳩寺は、往古には七堂伽藍、数十の坊庵が甍を並べ壮麗を極めましたが、出雲の尼子氏の侵攻で播磨が混乱していた天文10年(1541年)4月7日、不慮の火災により、諸堂が灰燼に帰しました。その後、楽々
通法寺界隈〓・・・いよいよ「源 義家」登場 さて、先ほどのおじさんの話では、こちらとは反対側に行けば、源 義家に会えるという。 か細い、心もとない道だ。板の橋(上の写真は義家の方から頼信方面を見たもの)を渡ると、山を1つ平らにしたような広場に出た。 正面にやはり、土饅頭がある。 この義家という人の人気は今もって衰えない。4月ともなれば、街の名だたる人形店には、五月人形として必ずといっていいほど、義家の兜が展示される。 今年人気だったのは、独眼流政宗こと、伊達政宗。 そして、古典的なところでやはり、源 義家。 もちろん、鎧の袖(肩から二の腕までの保護板)、草摺り(鎧の前掛けのような部分)、縅の色糸などは創作の見せ所だが、兜は、金メッキの大きな鍬形(兜の角の部分)や頭頂部の八幡(てっぺんのちょっぽ)から放射状にある突起物の星など、力強い八幡太郎義家をイメージさせるものとして、今も大人気である。 その、今なお人気の義家が、ここ、大阪府太子町に眠っているなんて、今日まで知らなかったのである。 先ほどの頼信と違い、この墓を中心に山の周囲に梵字を刻んだ角の取れた錆びたような墓石が、使い古しの墨のように取り
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